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工場を記録する会は東大阪市製造業事業所の活力を記録しています

平成28年度  東大阪市
地域まちづくり活動助成事業

株式会社 神山鉄工所
高井田西5丁目

明治28年生まれの祖父は小学校を卒業して大阪砲兵工廠に入職し、大正8年、24歳のとき大阪市東成区中道で創業した。頼母子講から借り入れて機械等を買った。砲兵工廠で身につけた技能と工夫で、外国からの輸入に頼っていたダブルヘッダー機・製釘機を独自開発して生押リベット・鋲釘を生産した。父は祖父の職業人生を「無から有を作り出した」と評していた。創業より16年後の昭和10年、高井田に工場・居宅を建設した。トップページの写真がその完成イメージ図である。自社での機械生産に拍車がかかり昭和14年に線材製品の一貫生産体制を確立した。すなわち伸線機・ローリングマシン・すりわり機を設計製作し、伸線から大小ねじ・木ねじ等を生産したのである。右図は当時の『型録』からの抜粋である。なお伸線の設備は社長の子ども時代(昭和30年代)に工場内に残っていたが使われていなかった。 


戦時下の昭和18年、工場は福井県丹生郡武生町に疎開した。社員数200人であった。高井田の工場・居宅は祖母一人で守った。 終戦直前に武生工場は空襲を受け、昭和22年、社員15人で高井田での生産を再開した。その後の画期は、昭和29年、祖母が四国遍路の最中に聞いた「米フィリップ社のプラスねじ特許が切れる」という情報をもとに始めた十字穴パンチ開発とプラスねじ生産であった。昭和37年の入社案内によれば昭和36年に工員独身寮を増設して社員数105人に達している。左図はそのパンフレットの表紙に印刷されている工場全景である。


「技術開発と人の和」を社是としている。前項に記している昭和37年の入社案内には次の一節がある。「現在十字穴付ねじ製造の屈指のメーカーとなり尚且ダブルヘッダー機として神山製は舶来品に優るとも劣らぬ信用を得其名は全国に知られて居る。其間当社長より技術を習得せる従業員は実に多数にして大部分の者は独立自営し或は他社に転じたる者は其の途の要職につき各々が成功を修めて居る実態にて社長の徳を慕い労をねぎらう為神山会なる会を作り度々会合当社長を中心にして互いに交友を温めつゝある現状である。」

昭和37年に奈良県桜井市に工場を新設し小ねじ・タッピンねじ・各種ねじ生産を移した。その後、28年を経て平成2年3月に桜井工場を増設、ねじの生産を集約している。この間に、製造機械の製作をやめてねじ生産に特化した。昭和48年、祖父が逝去して父が2代目社長に就任した。当時、切削によるドリルねじ生産が一般的ななか、父が冷間鍛造の機械を設計し、昭和52年に自社製ピンチポインターを用いての全冷間鍛造によるセルフドリリングねじ『ユニポイント』製造を始めた。そして昭和59年には特許権を取得した。当初、市場での反応は少なく月商200万円にも及ばず、粘り強い営業努力と製品の持つ高い性能・品質が建築関係者を中心に認められ、今では年間6億円以上(ピーク8億5000万円、総売上の8割)に達する主力製品となっている。ユニポイントの延長線上に、用途の多様化に対応できる研究開発を重ねて平成10年『スチールハウス用ドリルねじ』、平成19年『建築構造用ドリルねじ』の認定を取得している。

平成2年3月の桜井工場増設に続いて6月には本社機械工場・本社社屋・立体自動倉庫を完成した。本社の一新を祖母は喜んでくれると思っていたが、55年続いた本社・工場が取り壊されることを寂しく感じていた。専務取締役として増改築を推進した現社長が翌3年12月に就任した。下図は完成した本社・工場と、道を隔てた社有地を売却して建設したマンションである。


生産設備の自社開発や品質管理の充実など97年間たゆまぬ努力を重ねてきた。開発した新しい技術力によって一本一本のねじにあたらしい機能が生まれ、ねじは新しい進化を遂げながら最先端のテクノロジーを支え続けている。現在の社員数は本社20人、桜井工場35人である。神山社長は「社内では若い新しい世代が育ってきている。伝統の技術や経験を大事にしながらも彼らなりの発想や主体性を活かし会社を盛り上げてほしい」と語る


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