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工場を記録する会は東大阪市製造業事業所の活力を記録しています

平成28年度  東大阪市
地域まちづくり活動助成事業

東田機工 株式会社 
高井田本通2丁目

祖父が大正11年、大阪市東成区神路で創業。昭和12年、高井田に工場を新設して移転した。その工場完成予想図(右図)が昭和60年、祖父が亡くなったあと遺品から見つかった。当時、大学4回生だった私はその図を見て東田機工を継ぐ覚悟を決めた。四ツ折りで仕舞われていた予想図を額に入れて会社事務所に掲げている。


昭和12年建設の工場で今も操業している。当時の柱、壁、床を利用し、クレーンも自社で修理して使っている。誠実に仕事をした祖父だったので創業から16年でしっかりした工場を建てることができた。左図にあるように手入れを施した築79年の貴重な建造物である。

戦争中は食糧難で煎餅を焼く機械を作っていた。終戦後、大阪が復興するには,ねじが必要なので、周囲から「東田さんとこ機械屋やろ。機械作られへんか」と言われて祖父がねじの機械=転造盤(右図)を作り始めた。高井田が当社をねじの機械メーカーにしてくれた。昭和30〜40年代の高度成長期には40人の従業者を雇用して分工場を2カ所に持っていた。オイルショック、プラザ合意後の円高は乗り越えたけれど、バブル崩壊は職人気質の父親では存続が難しく社員数は15人になった。私は大学卒業後、京セラに入社して営業を担当していた。3年後、自社の苦境を母親が強く訴えて「戻る」よう迫った。私は京セラを退社して自社に入った。


平成9年に父が亡くなってからは、標準品ねじを生産するローリングマシン製造から特殊ねじを生産する転造機の製造へシフトした。ライバル他社に無いレベルの機械の開発を「俺がやらなきゃ誰がやる」の気概で進めた。バブル崩壊後の国内停滞と円高による製造業の海外進出を受けて売り上げが激減する中で、「リスク分散のために海外比率をさらに高めないといけない」という危機感から販路を海外にも求めた。自社ブランドの完成機械(右図)を手がける事業なので、規模は小零細ながら名だたる工作機械メーカーに伍す心意気でやっている。開発費が嵩まない工夫をしながら取り組んでいる。6人の社員でメカと電気の設計・製作すべてを担っている。「マシンと工具をアイデアでシステムにする」を強みにして、スタンダード・汎用品ではなく、高精度・高付加価値を実現するための提案ができることを追及している。このように自らを変えてきた結果、自社を製造業ではなく、技術を提供するサービス業と捉えるようになった。お客様に頭を下げることが苦にならなくなった。いつの間にかお客様も我々を大切にして下さるようになった。

社長の現状認識は次の通りである。
「材料、部品の仕入は地元の高井田から行っているが、国内の販売先は中部・東海・関東へも広がっている。海外にも販路開拓しているので、地元に根ざした企業という意味の町工場と言えるのは仕入と製造に限られている。小さい会社こそ、広い視点と深い分析力を持たないと時代を生き抜いていけないと肝に銘じている。1990年代から海外展開に踏み切らなければ今の東田機工はなかった。迷いはもうない。」
「材料、部品の購入と外注加工で難しい状況が生まれている。次のような工程を外注している。鋳造、熱処理、平削り・穴くり加工、機械(旋盤・フライス盤・マシニングセンタ)加工、焼き入れ、窒化処理、メッキ、黒塗り加工、等。これらを行ってきた地域の事業所が廃業している。これからも続くと予想するので基盤技術の崩壊を恐れている。」


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