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工場を記録する会は東大阪市製造業事業所の活力を記録しています

平成28年度  東大阪市
地域まちづくり活動助成事業

ニッセンングループ
東山町


山下眞三氏が創業
 1949年の創業から60周年を迎えた2009年に記念事業としてニッセンミュージアムを建設した。展示内容の冒頭には年表が掲げられている。始まりは1949年の創業ではなく、枚岡における伸線業の発展史が綴られている。1987年に就任した2代目社長の山下眞一氏は50周年記念式典を開催した前後より、ミュージアムを構想して伸線業界の歴史を後世に遺すことを念頭に準備を進めた。山下社長の思いが生まれた背景には創業の経緯がある。
 創業者の山下眞三氏は1926年、叔父の紹介で日本亜鉛鍍株式会社(のち日亜製鋼株式会社)に入社する。これが線材製品業界に飛び込む契機となった。以来、販売担当、工場長を経て1948年秋、日亜製鋼の取締役の道をとるか、独立かの岐路に立った。結局、日本鉄線という会社の空工場を買収し、日本製鉄の線材をバックに、資本金200万円、従業員18人の日本製線をスタートさせる道を選んだ。こうして江戸時代末期に伸線業が興った旧枚岡市域に、釘と鉄線の製造工場を設立した。

次々に起こした新たな事業展開  
 創業より2年後に米国向けの釘、特殊釘の市場調査を始めた。それから3年を経た1955年10月、アメリカ視察に出かけた。当時としては、一線材メーカーがアメリカに行くなどは異例のことであった。アメリカへの輸出に全精力を注ごうとしていたからであり、やがて特殊釘に焦点をあてることになる。
 国内市場に向けては日本ペイントとの共同開発という形で研究を進め、1960年には、画期的な特長を持つビニコート鉄線を開発して折からの住宅ブームと相まって、内外ともに大きく売り上げを伸ばすことになる。翌1961年には、ビニコート鉄線のノウハウを鉄条網に生かしたカラー鬼針金を開発している。
 初期のヒット商品ビニコート鉄線に続いて、1969年には、わが国初のブラインドリベットの国産化に成功した。このブラインドリベットは、第2回目の米国視察の折、飛行機から降りるタラップに使われている美しいファスナーに興味を持ち、また米国の家庭用にも使われていることを知り、開発に着手するに至った。それは着眼してから7年、本格的に取り組んでからも3年の月日が経過するなかで、日本理器株式会社(現・株式会社ロブテックス)との技術交流をなして成功させ、第2のヒット商品となった。東大阪の地場産業である伸線業と作業工具製造業が連携した商品開発のモデルケースとして当時、注目された。
 ブラインドリベットに関して東大阪ブランド推進機構ホームページに掲載されている会社概要は次のように述べている。「産業界の様々な現場で活躍するブラインドリベットの国内パイオニア企業。国内生産にこだわり、徹底した管理体制で高品質の製品を製造。様々なサイズ・材質の製品を揃えており、仕様を変更した特注品の製造にも柔軟に対応する」。

ニッセングループの設立
 高度経済成長がいつまでも続くものだとは考えられないとみた山下眞三氏は、日本製線グループとしての組織強化に乗り出すことになる。1971年8月のドルショックの次にもっと大きな反動があるとみて、日本製線を工場別、品種別に分離し、それぞれが独立採算制を導入する方法しかないと決断したのである。
 この方針により、いずれも東大阪市内に本社を置くが、まず1972年日本製線株式会社をニッセン株式会社と商号変更し、改めて日本製線株式会社を資本金1000万円で設立した。ニッセン(東山町、資本金7900万円、従業員45人)は、グループ全体の持株会社の機能を有し、資産の投資運用を図るとともに、事業部門としてブラインドリベット、その他の製造販売にも実績を残すことになる。
 この前後に創設されたグループ企業として、主にニッセングループ各社の製品を総括的に販売する日線商事株式会社、『特殊釘の中の特殊釘』(カラーネイル、パネルネイルなど)と呼ばれる製品を担うとともに、ダイレクトに輸出も行っているサニーインダストリーズ株式会社、さらにブラインドリベットの一貫作業システムを担うニッセンファスナー株式会社(元ニッセンホームフェンス株式会社)などがある。
 こののち、1990年日本製線株式会社にサニーインダストリーズ株式会社を吸収合併した。2003年にはニッセン株式会社のファスナー部門を分社化してニッセンリベット株式会社を立上げ、ニッセン株式会社はホールディングカンパニーとした。なお、ニッセンリベット株式会社からは東大阪ブランド推進機構のOnly1製品に2種(シールドバルブリベットとチタン製ブラインドリベット)が登録されている。 
 翌2004年に創業55周年を迎えた。建立された記念碑は、ニッセングループ代表者山下眞一の名で次のように結ばれている。「経営的にも質素堅実を旨とし円高やオイルショック等幾多の困難を乗り越え、苦境を好機として捉えてきた。“人事を尽くして天命を待つ”というニッセンイズムが現在も脈々とニッセングループの社員に引き継がれている事を55周年に当たり確信する」。

リーマンショックと60周年
 2008年9月リーマンショックによる金融危機が起きた。その翌年が創業60周年であった。この間の事情を日刊工業新聞東大阪支局ブログ(2009年7月9日)が伝えている。以下に引用する。
 「『ニッセンミュージアム』を見学してきました。創業60周年の記念に立てたミュージアムで、創業当時の工場写真や製造機を展示、伸線業の歴史を伝えています。本社を構える東大阪市枚岡地区は、奈良県と大阪府をまたぐ生駒山の水車を動力源として、伸線業が栄えた地域。製品である特殊釘の多くは、住宅向けが主な用途だそうで、バブルをピークに、輸入品の増加や市場縮小に伴い、業者も淘汰されているそうです。十数年前からミュージアム構想を練っていた山下眞一社長は『会社はいつまでもあるものではない。業界の歴史を後世に残す必要がある』と語気を強めます。この不況の影響は避けられず、業界内で一層の淘汰が進んでいるとのこと。自社についても、『リングに白タオルを投げる練習はしている』と笑い飛ばします。もちろん、それが現実にならないよう、『設備投資と人材確保は継続している。会社の本質とは何かをしっかり見定めるべきや』と哲学を語ります」。

ニッセンミュージアム完成までの軌跡
 山下社長が構想したニッセンミュージアムの準備を担った技術担当部長、大泉利男氏にインタビューを行って経過と運営について取材した。動画によってその内容を示す。






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