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工場を記録する会は東大阪市製造業事業所の活力を記録しています

平成28年度  東大阪市
地域まちづくり活動助成事業

株式会社 澤田工業所 
箱殿町

生駒西麓の谷筋に展開した水車工業
 生駒山地西麓において発達した薬種・胡粉など粉末加工工業と伸線工業は、水車動力を抜きに語れない。これら工業が生成・隆盛・衰退の過程をたどるなかで、工業動力としての水車にこれら工業の生産方法の違いが与えた影響には対照的なものがある。粉末加工工業と伸線工業とでは生産に要する動力の多寡が違うため、電力が登場した大正期からそれぞれ異なる展開を示した。
 粉末加工工業は小西製薬株式会社のページで「辻子谷の伝統製薬業」として取り上げた。そこで最後の水車が止まったのは昭和57年である。水車は電動機に比べて作業効率は格段に劣るが、処理熱で香りや薬効を損なうことがなく、高速機械でできない「ちり粉」という超微粉末にも大きな役割があったからである。本ページでは、山中伸銅所を引き継ぐ株式会社澤田工業所の沿革から「豊浦谷の伸線工業」について述べる。幕末期に始まり明治期に広がった伸線工業は、大正3年の電力供給に始まる技術革新を積極的に受け入れて20年後の昭和10年には水車を稼働させていない。水車動力を決定的に凌駕する電動機が伸線工業の生産方法から工場立地にまで影響を与えた。これらの経緯について株式会社澤田工業所の代表取締役澤田知宏氏が見聞したことがらを聞取って以下に叙述する。

豊浦谷の伸線工業  
 豊浦谷の水車は江戸期、精米・精麦・油絞りが主で、幕末期に伸線水車が登場して明治期中頃から大正期中頃にかけて急速に拡大した。これには豊浦谷が生駒山地のなかで最も水面勾配が大きく、馬力の大きい上掛け水車を架設するのに最も適した地形であることが寄与している。しかし、豊浦谷の水車群は、辻子谷の水車群と異なり伝統産業の範囲に入るものが少ないため、動力源を電動機に切り替える変化に直撃されて生駒山地の水車群のなかで最も早く姿を消した。1914(大正3)年に大軌電鉄の電力供給事業が始まってから1935(昭和10)年までの20年間、【注】紆余曲折の末、水車はすべて活動を停止した。結果、水車小屋から機械工場に転換し、立地は谷間を離れて扇状地に移動した。
【注】紆余曲折(『水車の技術史』1987年刊行より引用 241頁)
・今中誠一郎氏は枚岡の針金の元祖針金屋安兵衛の子孫。同家も大正10年頃に水車伸線から電力伸線に転換したといわれ、「トヨ伸銅KK」として盛業されている。(引用者注記:「トヨ伸銅KK」は合併で改名したのち廃業された。)
・豊浦谷最後の伸線水車は中野喜一氏の御尊父のものといわれる。昭和4、5年ごろ、当時電力を配給していた大軌(現在の近鉄)に、需要家が結束して電力料金の引き下げを要求し、かなり長期にわたって電力不使用運動を実行した。その際、小学生だった同氏は、水車伸線を知る機会を持った。
 明治、大正期の動向を詳しく見ると、明治30年代に春日伸銅の前身、西村工場が初めて石油発動機を導入して水車の補助的役割を果たした。大正3年、大軌電鉄が開通し同社から電力の伸線装置が宣伝され、向井鉄線工場と山中伸銅所が電動機を採用した。春日伸銅の西村氏から澤田社長が聞いたところによると「モーターをまわす最初の時、同業者が見に行きました。水車だとゴットン、ゴットンゆっくりした速度なのに、モーターでやるとシュルシュルと線を引いたんです。この状況を見てみんな飛んで帰りました。このあと、第1次世界大戦中に真鍮にしろ鉄にしろ需要が伸びましたから、それに追いつこうとしたら、しっかりした動力が必要になったんです。大きな水車を注文されていた工場もキャンセルされたと聞いています。即断だったんですね。1台のモーターでベルト・シャフトをつうじて4台の機械を回すという仕組みは、水車と変わらないものだったので移行がうまくいったんでしょう。」
 春日伸銅の西村氏は道具、設備を保存されていた。10年以上前に廃業される際、明治期に使われていた「ふいご」、大正年間のモータ―(下左)、他の鉄工所所蔵の大八車の車輪を澤田社長が引き取られた。あわせて上述の山中伸銅所において事務作業や初荷の際に使用した黒染めの法被(下右)を澤田社長は保管されている。

 左に立てているのは30pメジャー
 
 

明治19年からの伸銅事業を承継
 山中伸銅所は明治19年の創業である。後年、大和伸銅株式会社から大日製線株式会社に改組された。昭和40年、大日製線を廃業しようとしたところ、澤田知宏氏の長兄が事業を承継した。昭和43年、次兄が独立して旧・山中伸銅所の工場で操業した。澤田知宏氏は昭和49年、10年間勤めた信用金庫を退職して長兄の会社に入社した。昭和52年7月、長兄の大日製線を改組、次兄の澤田工業所に統合して株式会社澤田工業所を設立した。同年12月、兄2人が工場内事故でお亡くなりになり、年が明けてすぐに澤田知宏氏が代表取締役社長に就いた。33歳であった。
 銅は価格が高いので信用がないとなかなか仕入れることができない。社長就任当時の苦境を乗り越えるにあたり加工委託の問屋、信用金庫はじめ「いろんな方に恩を受けて、今まで仕事をさせてもらってます(社長談)」。続けて社長が決断について語るところによれば、「品種によってはサイズ別のキロ当たり加工賃が昭和30年ぐらいまでとほとんど変わっていません。当時は結構な値段でしたが、今では大変なことなんです。そのような品種を古い機械設備で製造するよりは、付加価値の高い加工をするために新規の設備投資に踏み切りました。月間生産の4分の1にあたる仕事量でしたが打ち切りました。せんならん決断でした。」
 長兄のご子息が入社5年で現場の責任者として働いていらっしゃる。70歳で退職した工場長からの引き継ぎはできたが、さらにそれ以前の職人が開発した技術の継承が現在の課題となっている。社長曰く「委託先の要求に応えるためだけでなく、なぜ継承しなければいけないのかを理解することが求められている」。


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