株式会社 ロブテックス
四条町2丁目
『ロブテックス創業120年史 ロブテックス120ストーリー』(平成20年8月刊)より引用
1.明治21:1888 創業、伊藤兼吉、両手バリカンを発明する
伊藤兼吉は明治元年(1868)生まれで鉄砲鍛冶をしていたという。東京から大阪に出てきて大阪砲兵工廠に勤務していたが、修理を頼まれたフランス製の馬用の毛刈り器にヒントを得て両手バリカンを発明した。明治21年(1888)のことである。明治16年にフランスの日本公使館書記官であった長田桂太郎が帰国の際に、トンズーズ(tone?euse)という斬髪機械をすでに持ち帰っていたが、この舶来のバリカンは理容鋏の4倍ほどもする高いものであった。手に入れても実際には使用せず、宝物のように箱に入れて飾り付けてある店もあったという。そのような時代に伊藤が商品として売り出したこの両手バリカンは、みるみるうちに理髪業界に広まっていった。
2.明治40:1907 地引鉄工所
明治末年、現本社の周辺においても理髪用バリカンが盛んに製造されるようになっていた。枚岡村四条の樋口萬治がこの地にバリカンの製作技術を伝えたと言われている。その教えを受けた一人である地引爲次郎が、瓢箪山に工場を造ってバリカンの製造を始めた。東大阪市は今でこそ作業工具のメッカとして知られるようになったが、当時は綿花の栽培が盛んであった。そのほかには産業らしい産業はほとんどなかった。当時の地引鉄工所の従業員は14〜15名ほどであった。動力と呼べるようなものは何もなく、すべてを人力に頼っていた。仕上げもヤスリ一本で行っていた。まるで機械鍛冶屋というようなものであった。作業工程のほとんどが手作りのために個人の技量によって品質にかなりの差が生じた。
3.大正12:1923 日本理器株式会社創立
バリカンの需要の増大とともに生産能力を上げることが急務となり、工場拡張に伴って、合併の話がもち上がった。大正12年8月12日、伊藤鉄工所と地引鉄工所が合併して日本理器株式会社を設立した。伊藤鉄工所の工場はそのままにして、瓢箪山に100坪(約330u)の木造の工場を建てた。全く新しいものというのではなく、桜島にあった工場をそっくり買い取り、解体して移築したものであった。従業員は50名前後とも70名とも伝えられるが、どちらにしても名実ともに日本一のバリカン製造工場の誕生であった。創立間もない9月に関東大震災が起こり、関東地方のバリカン工場が全滅した。そのため、震災後は、バリカンの注文が大阪に殺到し、ますます生産に追われることになった。昭和2年(1927)自動歯切盤の専用機を開発、自動送りによるバリカン歯の荒引き作業を考案してから、全機械を自動操作に変更した。生産能力は7倍以上になり、全国生産量の50%を占めるようになった。
0 1 2 3 4 5 >