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工場を記録する会は東大阪市製造業事業所の活力を記録しています

平成28年度  東大阪市
地域まちづくり活動助成事業

長寿企業対談

わが社にとって100年企業とは
レッキス工業株式会社  100年企業に向けて、さらなる進化を。
  フジ矢株式会社  創業100周年に向け、新生フジ矢を創りあげたい。


目次  項目をクリックすると各項にジャンプします

創業者と社名
本社工場の移転と社風
製品の沿革
経営理念
グローバル化への対応
100年企業に向けてのチャレンジ、経営戦略


創業者と社名
 
――まずは初めに会社の沿革でございます。100年近い歴史をお持ちで全部ご紹介させていただくのは難しいですので主だったものをお願いいたします。


レッキス工業株式会社 
私の祖父、宮川作次郎は石川県の出身です。大阪で輸入品の機械工具商を営む義兄を頼って大阪に来ました。その経験から輸入工具の国産化という夢を持って、1925(大正14)年、大阪市西区で宮川工具研究所を創業しました。研究所という名前を付けたのは、いい製品を作って少しでも世の中のためになりたいとか、魂の入ったものづくりでなければならないといった考え方であったと聞いています。4年の研鑽を経て『オスタ型パイプねじ切器』の刃物を完成しました。長らく手動式であった『パイプねじ切器』を電動式の『パイプマシン』に変えて量産を可能にしたのは1960(昭和35)年のことでした。配管器械工具のREX(King of Kings)『王様たちのなかの王様』という意味を込めて1965(昭和40)年にレッキス工業株式会社を設立しました。

フジ矢株式会社
私の祖父、道本佐一郎は和歌山県の出身です。丁稚奉公で大阪に出てきまして大阪市生野区のペンチ屋に勤めました。21歳になった1923(大正12)年、一念発起して道本鉄工所を創業しました。当時は完全な鍛冶屋の職人仕事でして、真っ赤っ赤に鉄を焼いてハンマーで叩いて形を作り、一丁一丁、手作りであったと聞いています。そのなかで従来とは異なる製法を考えだして生産量を一気に10倍に増やし、焼入れ技術を研究して浸炭焼入れが軌道にのり高品質の製品を生産しました。戦時中に富士矢(富士山に矢が刺さった)印のペンチ製造を始め、1944(昭和19)年に大阪ペンチ株式会社を設立しました。それから4半世紀ののち1973(昭和48)年、社名をブランドと統一してフジ矢ペンチ株式会社と変更しました。道本佐一郎の娘婿、野﨑誠二はダイハツでエンジニアとして働いた経験を活かして新しい生産ラインを導入し、省人化と品質の飛躍的向上を実現しました。コストが3割削減できました。2代目社長となった野﨑誠二は1993(平成5)年、社名からペンチを外して現在のフジ矢株式会社に変更しました。


本社工場の移転と社風

レッキス工業株式会社
創業から10年を経た1935(昭和10)年、前年9月の室戸台風の被害を契機に中河内郡玉川町(のちの河内市)菱屋東に移りました。翌々年に日中戦争がはじまり工場では一般工員の大部分が徴兵されて人手不足となり、作業の継続が難しい状態となりました。そんな時、創業者が大阪市立聾唖学校(現・大阪市立聴覚特別支援学校)を訪れる機会があり、そこで耳は聞こえなくても黙々と仕事に打ち込む人たちの姿にすっかり心を打たれました。そして、この人たちに技術を教えて旋盤工に育ててみようと決意したのです。これは当時、日本ではまだあまり前例のない身体障がい者雇用の取り組みでした。戦後には1949(昭和24)年、大阪府身体障害者雇用促進協議会を設立する発起人となりました。この設立は全国に先駆けての画期的なものでした。1973(昭和48)年に逝去した創業者の後を継いだ宮川典子は、創業者の遺志を継いで、身体障がい者雇用の促進活動にも尽力し、この活動は受け継がれ、今日ではレッキス工業の社風として定着しています。

フジ矢株式会社
弊社は戦前、大阪市生野区で新工場を建設し、戦後は復興需要のなかで逓信省(現・総務省)規格を作成して逓信省指定工場となりました。さらに逓信省規格をもとにしてJIS(日本工業規格)がつくられ認定工場となりました。創業者が業界の発展のためには欧米に負けない厳しい規格が必要だと考えた結果でした。しかしながら同業者の猛烈な反対を受けて、創業者は積極的に技術を教えました。60年以上たった今でも私が新潟の同業者を訪ねた際に『昔、おじいさんの家に泊めてもらって工場を見せてもらった』とおっしゃいます。
1968(昭和43)年、工場が手狭になり、3市(布施・河内・枚岡)が合併した東大阪市の花園ラグビー場の近くに移転しました。今のような家や工場はまだ少なく周囲は田んぼばかりでした。会社から直線距離7km離れた布施駅が見えたといいます。翌1969(昭和44)年、私が生まれた年ですが、世界で初めての低温精密鍛造(マイプレス)でのペンチ製造に着手しました。当時の売上の5分の1にあたる投資でした。創業者の品質に対するこだわりは本当に強く、この時も技術を成功させるために専門家を社長より高い給料で呼んでくるほどでした。



製品の沿革

――100年近くも商いをやっておられますと、いろいろ変わってくるのが普通なのですが、ご両社は創業時の商品にずっとこだわりをもってこられました。100年経つと元、何をやっていたのか影も形もなくなっているケースもあります。製品の沿革につきまして主要なものに限定してお願いいたします

レッキス工業株式会社
1960年に電動式ねじ切器『パイプマシン』を開発してからは、アフターメンテナンスを重視して機械修理のできる地方代理店網を構築しました。それでお客様の安心、信頼を得ましてパイプマシン国内シェアNo.1になりました。これがひとつの大きな飛躍のきっかけになりました。その後、1980年代にはアメリカに進出してグローバル化をスタートしまして2000年までにアメリカ工場、中国工場、タイに営業サービス拠点を造りました。
1990年バブル期に売上100億円超えをしたのですが、バブル崩壊と配管材料や工法の多様化によって1992年から2000年にかけてパイプマシンの需要が約4分の1に激減しました。売上のほとんどをパイプマシンに頼っており経営危機に直面しました。ただ、その10年ほど前からパイプマシンに代わる第2、第3の商品群が必要との認識と危機感を持っていましたので新しい材料や工具に対応する製品を開発していきました。特に樹脂管・鋳鉄管・鋼管・ステンレス鋼管を加工する工具機器の開発を行いました。この間に多くのオンリーワン商品、シェアナンバーワン商品を生み出しました。この経験から『長寿企業の条件』として『変えてはならないものと、変わらなければならないものを見極める』ことが重要であると認識しています。『変わらなければならないもの』とは『社会の環境変化に対応すること』『常に準備を怠らないこと』です。
2000年代になりますと高度成長期に造られたインフラが老朽化しまして既設配管のケアに関わる商品の品揃えをスタートしました。そういう形でパイプを切って継ないでケアする商品群を構築して、それまで『パイプマシンのレッキス』という形で進めたものを、あらゆる配管の課題を解決する『パイピング・ソリューションのレッキス』へと転換していきました。順調に売り上げを伸ばしてきたのですが、2008年からのリーマンショックで今までで一番、一時的ですけど、大きく売上が落ち込み、工場稼働率は一時期3分の1になりました。それまで基本的にはトップダウン経営をやっていたのですが、指示待ちを脱することが経営課題だと捉えて経営品質向上プログラムに取り組みだしました。2009年からです。トップダウン経営から全員参加のボトムアップ経営に変えてきています。2010年からは増収増益のトレンドになりまして、現在は2020年のポスト東京オリンピック・パラリンピックに備えて、既存事業の強化と新規事業・新市場の開拓に力を注いでいるという状況であります。先程申し上げた『変わらなければならないもの』が今、求められています。コア事業が超成熟市場で限界がありますので新規事業・市場の開拓が必要です。

フジ矢株式会社
フジ矢の沿革には、ペンチ業界初の改良・変革が刻まれています。主だったものを上げますと、焼入れ技術の改良、手作業から機械による量産化への転換、規格の制定、自動制御による省人化と品質の飛躍的向上、10周年を迎えるベトナム工場、これらのことを実現してきました。とはいえ、主力商品ペンチはほとんど変わっていません。ペンチは万能工具です。創業当時は3サイズ(150㎜・170㎜・200㎜)でしたが、ユーザーニーズに合わせて幅を広げており、現在570アイテムございます。使用する場面に合わせて専門的に特化してどんどん増やしてきました。われわれの現状を『一本足打法』と呼んでいます。『国内市場だけ、ペンチだけ』のビジネスから、『三本足、四本足打法』の海外における総合工具メーカーに変えていこうとしています。
国内市場がシュリンクしていくペンチ業界は斜陽産業です。打開するために、顧客単価を上げる、商品のラインナップを広げる、商品開発に力を注ぐ、そういうことをしています。小さなマーケットで断トツNo.1になる(現在のペンチ市場シェア40%を70%にする)ことが目標です。2015年、東大阪市内の同業者、花園工具株式会社をグループ会社にしてシェアを拡大するとともに本社工場を建て替えて生産改革を進めています。
海外との関係では、中国・台湾の製品と何で差別化するかというと、仕上げで行う職人による刃付けです。しかしこれは強みでありながらジレンマがあります。というのは、工業製品で量産品であるのに一個一個、手作業で刃付けしなければならないからです。最近では特に若い職人さんが日本国内で育ちにくいということもあって、ベトナムに工場を出しました。ベトナム工場を使ってベトナム人に働いてもらって職人技術の仕事をしています。ただ問題は、職人技術で作るということは人によって若干やり方が違うため、ばらつきが出ます。今、取り組んでいますのは、できるだけ職人芸を少なくできるようにいかに機械化していくか、前工程の機械加工でいかに精度を上げるかという課題です。新しい技術を生み、新しい機械をわれわれで創っていこうという意気込みで取り組んでいます。例をあげますと、焼入れを職人による高周波から、センサーによるレーザーに切り替える技術を開発して自動化を可能にしようとしています。また、マシニングセンターを導入して4台の機械加工を1台に集約することで加工精度を上げて、刃付けの工程を簡単に習得できるようにしています。

レッキス工業株式会社
 弊社は刃物と機械のベストマッチングを築いてきました。配管の現場で問題が起きても刃物の技術を持っていますので対応ができる強みがあります。レッキスの工場では機械で精度を出す方向でやっています。ねじ切の技能を継承する「ねじマイスター」が2人います。2人を中心にねじを切る仕組みにもとづく技能の継承を行っています。この職人技能が今、役立っています。海外から入ってきたパイプでJIS規格に合わないのが多くて、普通に切ればねじがつぶれる、パイプが折れるので配管現場から助けを求められることがあります。「ねじマイスター」がパイプに合ったねじ刃付けの技能を発揮して問題を解決しています。

フジ矢株式会社
 うちは職人さんが多いですから、長く働いてもらいたいですし、職人さんも長く働きたいと思っておられるので、定年制ではなく引退制をとっています。各人が希望する就業時間で雇用を継続して、技能の継承と社員のやる気を引き出しています。74歳の方が最高齢で70歳代の方も数名おられます。できるだけ長く働いてもらえる環境づくりをしています。



経営理念
 
――ご両社が最も大切にされてこられました経営理念について述べていただきたいと思います。

レッキス工業株式会社
わが社の経営理念は『三利の向上』という言葉です。これはお客様、社員、社会がともに幸せになることを目指します。まずは、お客様に信頼される経営、『やっぱりレッキスでなきゃ』と言っていただける経営。2つ目に社員を幸せにする経営、今『ありがとう経営』というのをやっていまして『ありがとう』をいっぱい発信して笑顔いっぱいの会社にしようというものです。3つ目が社会に感謝し貢献する経営です。これを具体的な戦略にするために社員全員が参画して取り組んだのは、私が社長に就任した2010(平成22)年の前年、本格的に議論を始めて今も続いている『経営品質向上プログラム』のなかから生まれた『レッキスが目指す3つの理想の姿』でした。次のような内容です。
1.独自の技術・サービスでワーキング・アメニティを創造し、豊かな社会の実現に貢献します。
2.配管業に携わる方々をメイン顧客とし、感動を与える製品・サービスの提供を通じて、信頼される会社を実現します。
3.社員一人ひとりが元気と笑顔で、働きがいのある会社を実現します。
これが絵に描いた餅にならないように戦略課題に落とし込んで最終的には社員一人ひとりのアクションプランに落とし込みます。実現に向けてKPI(重要成果指標)で数値化して3か月毎に成果をチェックしています。『理想の姿』にどれだけ近づいているかを検証して進めています。これが今、会社の中で大切にしている内容です。
前節で1990年代の事業展開について話したなかで『長寿企業の条件』は、『変えてはならないものと変わらなければならないものを見極める』ことだと述べました。その『変えてはならないもの』が経営理念『三利の向上』の精神をずっと引き継いでいくことです。近年は社員重視の観点を『よき経営の循環』のスタートとしています。従業員満足が顧客満足につながり、業績アップの成果を配分することによってさらに従業員満足につなぐというサイクルをどういう形で創りだしていくかを経営品質プログラムでシステム化しています。もうひとつ『あたりまえのことをあたりまえにできる』ようにしようということで、メーカーとしてQ(品質保証体制の確立)、C(コストダウン・標準化・効率化・生産性向上・在庫削減)、D(納期遵守)を常に大切にしています。

フジ矢株式会社
創業者は品質第一を常に言っていました。ブランドがわれわれにとっての一番大きな財産です。フジ矢ブランドの価値を下げずにどう伸ばしていくのかを常々考えてやってきたのだと思います。現状に満足することなく、その時代に合わせて新しいことにチャレンジを続けてきたことが、われわれが残ってきた大きなポイントなのかなと思っています。常にリスクはありますけども企業として成長することが大事なのかなと思っています。成長を維持するためにやはり増収増益が欠かせません。増収増益できる企業体質であったり取り組みを続けることで永続的な発展を実現して生き残っていきたいものです。
増収増益をこれだけ強く意識するのは、私が社長に就任した時の経験が強く影響しています。私が29歳の時、父である2代目社長の野﨑誠二が58歳の若さで急逝しました。テレビ局の技術職を辞してわが社に入社した2年目に代表取締役社長に就きました。当時は創業以来最低の業績(売上半減、2期連続赤字)となる緊急事態でしたので私が最初にした仕事はリストラ(指名解雇)だったんです。その辛い経験があるんで今後絶対にリストラしない会社にしたいんです。そのためには増収増益をやっとかないといけないなと僕のなかでの考えになりました。今思えば若くして社長になったことで早い目にそういう経験ができて良かったなと思えますし、厭なことはだいたい忘れてしまいました。バブル全盛期に社長になるのと、崩壊後になるのとでは、今では悪い時になって良かったなと思えます。就任以来19年を振り返って、じわじわ行くときもあれば、ドンと行く時があってもいいと思います。3代目の私が目標とするのは永続することです。2015年、私なりに創業者はこう考えていたのではないかと推し量って経営理念“MANAGEMENT PHILOSOPHY”をまとめました。
「フジ矢はみんなから『さすがフジ矢』といってもらえるような存在になり、すべての人を『笑顔』  
にします。そして世界のものづくりをささえることにより、フジ矢は永続的に存在し続けます。」




グローバル化への対応

――昨年に行いました『東大阪市モノづくり長寿企業調査』(大正年間以前に創業された社歴90年以上の製造業事業所69社のうち37社が回答)の質問項目グローバル化への対応は次のような結果でした。
    海外市場には目を向けず、国内市場に限定  17社(45.4%)
    海外生産は現時点では考えていない     21社(56.8%)
    なお、「輸出拡大してきた」、「既に海外生産を実施済」は各9社(24.3%)でした。
この45%、56%を多いと見るか、少ないと見るか、私はどちらかと言うとちょっと多いなと感じました。これだけ国内市場がだんだん縮小に向かっているなかで、なぜ海外に目を向けないのかなと思いました。海外展開にふさわしい人材が必要ですし、未経験の会社が後ろ向きになる事情も理解できます。ご両社はグローバル化に積極的に取り組まれています。そのあたりにつきましてお聞かせ願います。


レッキス工業株式会社
 戦前より南米をはじめタイ・インド・中国に輸出していました。戦後も1948(昭和23)年より輸出を再開して世界各地に販路を拡大しました。1973(昭和48)年のオイルショック以降は海外市場への進出に力を注ぎました。輸出が国内需要の落ち込みをカバーした時期もありましたが、1985(昭和60)年のプラザ合意による円高が輸出を3分の1に激減させました。早急に海外拠点を作って将来への足がかりにしなければならないと考えました。この経過からREXアメリカの設立、アメリカのメーカーの買収を行った1988年をグローバル化元年と位置づけています。1990年代にはタイにREXアジア(営業サービス拠点)の設立、中国・現地法人の蘇州REX(生産拠点)の開業を実現しました。海外勤務を通じて人材を育成できること、中国工場で製造した部品を日本国内のコストダウンに生かしていること、海外スタッフとの年2回のグローバル会議でビジネスをめぐる多様な考えを得ていること、このようなメリットがあります。
 グローバル化のリスクには政治や為替などがありますが、日本・アメリカ・中国に工場を持つことで為替変動に応じて製造工場を選択してリスクを分散できています。3か国に工場を持ってわかったことがあります。日本製品は外から見ると過剰品質になっています。5段階で言うと日本は1か2のトップ2クラスしか認めません。アメリカの中心になる市場は3ぐらい、中国は4か5のレベルです。このすべてのレベルを日本で作ることはできません。それぞれのレベルに応じた生産をそれぞれの国で行っています。
 グローバル化のリスクはよく言われてきましたが、グローバル化しないのもひとつのリスクと考えています。そう考える根拠は、われわれのコア事業が成熟市場なので売上を伸ばそうとしたら海外市場を狙うしかありません。今後もグローバル化を進めていきたいと思っています。

フジ矢株式会社
 日本国内の市場が成熟してきてる、今後のこと考えたら日本市場だけでいいのかなということと、もうひとつ日本の労働人口がどんどん減ってきてるなかで日本だけではモノづくりできないなという感じになっていました。宮川社長が「日本にとどまるのもリスク」とおっしゃいましたように、ならば海外に出て行ってチャレンジしたほうがいいなと考えました。私が社長に就任した1998年当時、海外売り上げはほとんどゼロで、もちろん海外拠点もなかったんです。基本的に僕自身、海外のことが好きやったんですね。海外志向が強かったです。
 きっかけは2002(平成14)年にベトナムからの実習生を入れまして、海外に行くのもひとつのグローバル化ですけど、外国の人と一緒に働くのもグローバル化だなということで始めました。そして数年のうちにわかったことは、刃付けの仕事を覚えて機械加工ができるようになってもベトナムに帰ったら仕事がないんです。彼らも「ベトナムにフジ矢の拠点ができたら働きたい」と言ってくれましたし、われわれも日本の職人さんが少なくなっているなかで彼らの技術を活かしたいと思って、2007(平成19)年、ホーチミン市郊外のレンタル工場で創業しました。現在、フジ矢本社工場にはベトナム人の正社員3名、実習生8人が働いています。実習生は3年経てばベトナムに帰ってベトナム・フジ矢で働くという循環ができています。海外に出て行くリスクと壁は少なくなっています。ベトナムで10年やってみてわかったのは、日本で通用しなくなったビジネスモデル、日本で売れなくなった製品がベトナムで売れるということでした。「海外で作って海外で売る」ためにホーチミン市内に販売拠点を開きました。次はベトナム第2工場設立を考えています。
 先程、事業展開について話したなかで『三本足、四本足打法』の海外における総合工具メーカーを目指すと申しました。その意味はベトナムでペンチメーカーとしてではなく、さまざまな作業工具を取り扱う総合工具メーカーでいくということです。われわれが作れないものはOEM供給を受けて、人口・国土面積が日本の9割のベトナムにおいて生産拠点に加えて商社機能や小売販売も視野に入れた戦略を立てています。




100年企業に向けてのチャレンジ、経営戦略   

――100年企業に向けてのチャレンジ、経営戦略をまとめていただけますでしょうか。

レッキス工業株式会社
下図『4つの事業ゾーン』で考えています。基本的にわれわれが顧客価値創造商品と呼んでいる「お客様が必ず必要でシェアがナンバーワンであったり、オンリーワンや他社と大きく差別化できる商品」が売上の75%を占めます。そういったところを狙った商品・事業開発で売上、利益を確保しようとしています。


コア市場ゾーンは、われわれのお客様である配管設備業者さんに配管機器を売るもので、たくさんの機器を導入してきました。第2、第3の商品群と申しましたが、シェア100%でも売上5億円になりません。そこで
② 配管設備業者さんに配管機器以外の商品を売る有望商品ゾーンを立てました。一番最近作ったのが工事現場向けの無電極ランプの投光器です。これはわれわれのお客様にも売れますし、レンタル市場にも売れます。その意味で有望ビジネスゾーンより取っ付きやすいものです。品揃いをして4月から売り出そうとしています。
③ 配管機器を配管設備業者さん以外に売る有望市場ゾーンを設けています。ビルメンテとか海外とかレンタルとかです。
④ 上に出しました無電極ランプの投光器は限られた購買層ですが、無電極ランプはみなさんがお客様になる成長市場です。それが有望ビジネスゾーンです。市場規模が小さいニッチなので大手は進出していません。われわれの規模の会社ではこういうニッチ市場への製品投入が必要です。成長産業の中のニッチ市場に参入して「小さく産んで大きく育てる」ことを目指しています。
フジ矢さんにも昨年11月に竣工した本社新工場に無電極ランプを入れていただきました。

フジ矢株式会社
昨年秋に竣工した本社新工場は、社長就任以来の目標でした。今後、『魅せる工場』として新工場が営業にとって大きな武器になります。代理店、バイヤーの皆様に見ていただけるよう積極的にアピールしていきたいものです。フジ矢グループ全体の年間売上高は現在20億円。これをいつか100億円に。それを実現するためにも向う3年、生産改革に取り組み、その土台をつくります。
2015年にまとめた経営理念“MANAGEMENT PHILOSOPHY”には、フジ矢の良き伝統は継承しながら、創業100周年に向け新生フジ矢を創りあげたいという思いを込めました。前提として MISSION を発表しました。MISSIONは次の通りです。
よい会社を創ること  良い会社とは、単に経営上の数字がよいというだけではありません。そこで働く人たちが活き活きと働き、生きがいのあるものであり、そしてお客様、仕入先、フジ矢に関係する人々を笑顔にすることで、満足のいく業績を上げることです。そしてよい会社をつくるためには、よく考えたり、学ぶことが重要だと考えています。」
続けて3つの VISION を発表しました。
多角化して行く  老舗企業であるが、ベンチャー企業の精神で経営する。世の中に新しい価値を提供する製品や事業を創出し、製品群、市場、事業を多角化する。」
世界のフジ矢  私達は企業活動を通じて日本、アジアの発展に、そして日本・ベトナム両国に貢献し、また懸け橋になる。そしてフジ矢を世界に通じる企業にし、日本のフジ矢から世界のフジ矢になる。」
「仕事と人生をとことん楽しむ  遊ぶように仕事をし、仕事をするように遊ぶ。ロマンと経営の両立できる会社にする。従業員みんなが活き活きと働き成長ができ、ものづくりのおもしろさを実感できる場にする。」


――2時間に亘るご対談のおかげをもちましてご両社の歩み、そして今後目指される目標がよく理解できました。 100年企業の内実を読者の皆様にお伝えできますことに感謝申し上げます。
ご両社の益々のご隆昌をお祈りいたします。 誠にありがとうございました。




対談「わが社にとって100年企業とは」
レッキス工業株式会社 代表取締役社長 宮川純一様
フジ矢株式会社    代表取締役社長 野﨑恭伸様

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