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工場を記録する会は東大阪市製造業事業所の活力を記録しています

平成29 年度  東大阪市
地域まちづくり活動助成事業

野田金属工業 株式会社 
鴻池徳庵町4

創業者の野田邦雄氏は1929年、岐阜県の農家に生まれ、15歳の時「満蒙開拓義勇隊」の一員として満州(中国東北部)に渡った。敗戦後、ソ連軍などに追われ長春の収容所に入れられ、同じ収容所にいた開拓団の約2000人は飢えと寒さに耐える日々だった。唯一の食糧だった硬いコーリャンを炊く鍋がなかったので、暖炉にかぶせてあった鉄板をめくって鍋をつくり、収容所の人に使ってもらった。満州の開拓団など30万人のうち、およそ3分の1が亡くなったと言われている。餓死せず、この鍋で生き永らえることができた。モノづくりの原点がここにあり、「野田金属工業株式会社の魂」である。

「再び命を与えてくれた鍋」を手にモノづくりについて語る野田邦雄氏


帰国後、岐阜や名古屋で大工や電気工事の仕事をし、1954年、開拓団の恩師の招きで大阪に来た。大阪でも電気工事などをした後の1964年、ステンレス加工の道に進んだ。金属製作に関わることになり、あの鍋との縁を感じた。職人のもとで修業し、1965年、共同で事業を始めて1973年に独立した。量ではなく個を重視することを経営の基本にしている。1つ1つという姿勢は満州での鍋づくりに通じる。注文は面倒な内容でも断らない。1つの部品でも細かな要望に応じて手仕事でつくる

1990年代後半から工芸的な製作を始めた。金属板は部品用に切ると半端な部分が残る。それを機械と職人の高度な曲げる技術で活用できないかと考えた。会社の仕事に関わっているデザイナーと一緒にアイデアを出して、家庭の花器に始まりオリジナル製品を開発し、デザイナーの知り合いを通じて店舗の装飾に携わった。アーティスト野田正明氏がステンレス加工企業に制作依頼するも引き受け手がなくて困っている時に、野田金属工業が試行錯誤の末に完成した。それ以来、野田正明氏の公共施設でのモニュメントを制作している(右写真は島根県松江市宍道湖畔にある「オープン・マインド・オブ・ラフカディオハーン」)。作品は国内だけでなくギリシャや中国にも設置されている。


モニュメント制作の実績を見込まれて2014年、「モノづくりのまち高井田」が直面している課題「住工共生」のモニュメント制作を依頼された。ステンレスの鏡面仕上げで作られたメビウスの輪(左写真)には○△□の意匠が施されている。野田邦雄氏は「ボルトやナットではなくメビウスを象ったのは、『住』も『工』も和して暮らせる街にという願いからです。そこに暮らす多様な人々を表現しました」と語る。

住工共生モニュメント「メビウスの輪」を創るきっかけは、高井田で銅鋳物を手がけていた上田合金株式会社社長上田富雄氏(2015年逝去)との親交であった。「ものづくりを観光資源にできないか」と2008年に任意団体を立ち上げ、修学旅行生向けのツアーを企画した仲である。のちに一般社団法人「大阪モノづくり観光推進協会」(http://osaka-monodukuri.com/)に継承され現在に至るまで事業が続いている。野田金属工業株式会社は2009年までは年間1〜2件の工場見学であったが、2010年からは年々件数を増やして年間30件以上の工場見学を受け入れている。


10年来、工場見学に取り組む野田邦雄氏に「モノづくり観光」についてインタビューした。



2018年12月に「東大阪モノづくりミュージアム」がフレスポ東大阪イベントスペースでオープンする。左に示すのは展示のイメージ図である。フレスポ東大阪が所在する稲田新町界隈で野田金属工業は事業の拠点を構えてきた。その経緯と「東大阪モノづくりミュージアム」に寄せる思いを聞いた。

野田邦雄氏は稲田新町2丁目の貸工場(平屋3連棟の2区画)を借りて1973年に独立した。周りは畑で雲雀(ひばり)が鳴いていた。道を隔てた筋向えには近畿車輌株式会社の所有地にボーリング場とゴルフ練習場があった。1973年の秋にはオイルショックが起きたが、その影響をしのいで事業を拡張し、1980年代に入って隣接地の貸工場を借りて第2工場とした。長大な部材の加工が増えたため、特別に設計した300坪の貸工場を第3工場とした。場所は第1・第2の工場から西に250mの場所である。しかし1990年代、バブル崩壊後の不況で3カ所の貸工場を維持する負担が増すなか、1か月の支払家賃の額を聞いた金融機関から自社工場を持ってはどうかの話が持ち掛けられた。さまざまな物件を検討した末に現在地(3工場から北へ800mにある600坪の土地)を購入して工場を2001年に建設した。その後、2005年にゴルフ練習場は取り壊されてフレスポ東大阪が建設された。

以上の推移を目の当たりにした野田邦雄氏は次のように語る。

「45年に亘って稲田新町界隈の工場、住宅、店舗を見てきました。フレスポ東大阪2階に東大阪モノづくりミュージアムの常時展示ができると聞いて感慨深いものがあります。工場を記録する会の取材を受けたのは2018年1月末から2月中旬でした。取材の合間にミュージアムの常設展示場がなかなか見つからない苦労話を聞いていましたので心より祝福します。どのような内容の展示になるかも聞きました。東大阪モノづくりの歴史とモノづくり企業の活力が展示されるとのことです。東大阪で45年間、操業してきたとはいえ、まだまだ部分的にしか知っていません。弊社の歩みを東大阪モノづくりのなかで捉え直すことができれば何よりの喜びです。充実した展示になるよう期待を寄せています。」

東大阪モノづくりミュージアムは、2019年7月〜8月に特別展「楠根のモノづくり&まちづくり」を開いた。楠根とはフレスポ東大阪が立地する地域である。地元のモノづくりとまちづくりをテーマに展示した。その内容について野田邦雄氏に感想を尋ねた。

1. 「楠根中学校区の製造業分布」を見て、楠根地域に東大阪製造業の1割が集まっていることを知りました。それだけ集積していることに改めて驚いています。
2. 「地図から読み解く地域の変遷」は、弊社を設立した1973年以前のことがよくわかる内容でした。
3. 100年を超える長寿企業3社の歩みには学ぶところが多くありました。それぞれの御会社が時代の変化、経済の変動を克服されたことに敬意を表します。それを教訓にします。
4. 昭和20年6月15日の空襲で被災した日本ルツボ株式会社と楠根小学校には心が痛みます。私は満州で終戦を迎え、命からがら帰国しました。その経験をいつまでも心に刻んでいます。

以上のように野田邦雄氏は語ってくださった。



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