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工場を記録する会は東大阪市製造業事業所の活力を記録しています

平成28年度  東大阪市
地域まちづくり活動助成事業

レッキス工業 株式会社
菱屋東1丁目

目次  項目をクリックすると各項にジャンプします

A.現在までの歩み
B.社是
C.人材育成
D.事業承継1
E.事業承継2
F.事業展開
G.「100年企業」に向けて、さらなる進化を


A.現在までの歩み  宮川工具研究所からレッキス工業に
 創業者・宮川作次郎氏は13歳の時(1905年)、大阪で輸入品の機械工具商を営む義兄を頼って、郷里の石川県津端から上阪した。22歳の時(1914年)に独立して宮川商店を開業した。ようやく軌道に乗り始めたころに関東大震災(1923年)があり、数多くあった東京の得意先の売掛金が回収不能となって倒産した。33歳であった。倒産した時に、ともかく研究から再出発しようと決意した。以前の店で輸入工具を扱っていたので、そうした製品の国産化を考えた。1925年、大阪市西区に宮川工具研究所を創業した時、あえて研究所と名づけたのはその思いからであった。
 研究に研究を重ねて「お客様の心を捉えるもの」を造る、これは決して容易なことではない。独りよがりの計算は通用しないし、評価は常にお客様の側にあるからである。本物でなければお客様の心を動かせるものではない。魂の入った“モノづくり”でなければならない。そのことを1本のハンマーが如実に物語っている。握り手のところが指の形そのままにすり減っている。1929年に国産化した「オスタ型パイプねじ切器」の刃物の加工に打ち込んだ創業者の執念が伝わってくる。 
 長らく手動式であった「パイプねじ切器」を電動式の「パイプマシン」に変えて量産を可能にしたのは1960年のことであった。配管機械工具のREX(King of Kings つまり、王様たちの中の王様)という意味を込めて、1964年に合名会社宮川工具研究所から販売部門を分離してレッキス販売株式会社を独立させ、翌1965年に製造部門を分離してレッキス工業株式会社を独立させた。1959年にようやく2億円に達したばかりの中小企業が、パイプマシンの量産に成功して1966年には年商10億円に、1968年には年商20億年を一気に突破して、1980年には年商50億円、そしてついに1989年には100億円を達成するという急成長を実現した。この年、レッキス工業株式会社がレッキス販売株式会社を吸収合併して体制強化と効率化を図った。これによって、やがて迎えることになるバブル崩壊後の厳しい市場を乗り切る原動力を蓄えることができた。
 1991~92年のバブル崩壊、2008年のリーマンショックを転機とする歩みについては後段の事業承継で詳説する。


B.社是  受け継がれてきた創業魂
 1959年、社是に「三利の向上」を掲げた。三利とは、お客様・社員・社会の三者の利をいう。お客様に信頼される経営、社員を幸せにする経営、社会に感謝し貢献する経営を目指した。三者の利を向上させるために企業として何を為すべきか、創業者は次のような言葉で表現している。「お客様の心を捉えるものを造れなければ意味がない」「いい物を造っても売れなければ何にもならない」。この経営哲学を代表取締役社長宮川純一氏は「徹底した物づくりへの執念と商人魂」と表現する。宮川社長は実践の中から次のように語っている。
「7〜8年前から。出張などの外出がない限りは、営業だけではなく、開発・製造といったすべての部門を回るようにしています。それまでのレッキス工業はトップダウン型の組織で、会議でも『どうなっている?』とこちらから水を向けないと、みんな口を開いてくれない。これではいけないな、と思い会社の中を回ることにしました。実際に部屋から出てみてわかったことは、みんなの表情が毎日違うこと。元気なさそうだな、声が小さいなと思うとやはり残業が多かったりする。笑顔がバロメーターで、そこを見ています。仕事や製品のことを話すこともありますが、休日や家族のことなど本当にたわいないことの方が実は多い。話をしなくても『どや?』って声をかけるだけで、みんなの顔を見ることができる。そんなことを続けるうちに、会議でも自分から発言してくれるようになり、『指示待ち』や『やらされ感』みたいなことは目に見えて減り、気持ちの面だけではなく、品質や生産性の向上といった成果に繋がるようになりました。経営者としてお客様が大切なのは当然のこと。しかし、働く人が元気になることで、優れた製品が生まれ、ユーザーの満足に繋がる、そして地元のみなさんとも良い関係を築くことができる。弊社の「三利の向上」はお題目ではなく、とても身近なことから始めることができる、ということを改めて実感しました。」


C.人材育成  障がい者雇用と社員教育
 1935年、前年9月の室戸台風の被害を契機に工場を創業の地(大阪市西区)から現在地の東大阪市菱屋東に移した。この頃から日本は軍国化への道を進み、1937年には日中戦争がはじまった。工場では一般工員の大部分が徴兵されて人手不足となり、作業の継続が難しい状態となった。そんな時、創業者が大阪市立聾唖学校(現・大阪市立聴覚特別支援学校)を訪れる機会があり、そこで耳は聞こえなくても黙々と仕事に打ち込む人たちの姿にすっかり心を打たれた。そして、この人たちに技術を教えて旋盤工に育ててみよう、と決意する。これは当時、日本ではまだあまり前例のない身体障がい者雇用の先駆的な取り組みとなった。
 創業者は身体障がい者を一般社員と同じように接するとともに、職場の指導者には全員にテマネ(手話)を学ばせて意思の疎通に不自由がないようにした。また作業面でも、働きやすい職場づくりを常に心がけた。その後、職場では中堅幹部として後輩の指導にあたる人も出てきたし、永年勤続者も相当の人数に達するようになっていく。後々のことだが、1970年ごろから知的障がい者も入社するようになる。1972年には東京で行われた身体障害者職業技能大会でレッキス工業から参加した2人が旋盤の部と溶接の部で、それぞれ日本一に選ばれている。一つの仕事を一心にやる、その集中力は並外れたものがある。事業のうえで大きく貢献している者が多い。
 1973年に逝去した創業者の後を継いだ宮川典子氏は、人を見る目があり、積極的に抜擢する人事を行うなど、人材の発掘と育成に努めた功績が大きい。創業者の遺志を継いで、身体障がい者雇用の促進活動にも尽力し、この活動は受け継がれ、今日ではレッキス工業の社風として定着している。
 1986年、宮川典子社長が逝去。3代目社長の宮川以三夫氏は社員教育に力を注ぎ、中小企業では初めての取り組みとなる社内養成工制度を導入し、社員の能力開発を推進するために自ら教鞭を執っている。創業者が創設した奨学金制度の運営を任されていたこともあって多くの社員にも慕われた。

D.事業承継1  バブル崩壊(1991年)、リーマンショック(2008年)に直面して
 宮川以三夫氏はレッキス工業社長としての在位期間わずか3年4カ月で急逝。その短い期間にあっても、レッキス販売社長としての13年間におよぶ実績と経験を生かして、その経営姿勢は積極展開を行いながら内部固めも怠ることはなかった。何といっても一番の功労は、1989年1月に、レッキス販売の宮川恭一社長とともにレッキス工業とレッキス販売を合併させたことである。まるで合併を御膳立てして新体制の方向をしっかりと見届け、年商100億円達成の置き土産まで用意して新社長にバトンタッチをしたかのように、7月、亡くなった。
 宮川以三夫氏の後を受けて4代目社長・宮川恭一氏が就任したのは1989年8月のことで、まさに年商100億円達成のその年であった。バブルの真っ只中である。内需拡大で建築需要はまだ好調であった。1990年度には、パイプマシンの販売台数が過去最高を記録するという喜ばしいことが続いた。そのような好況の中で、新社長はひとつの決断を下した。1991年の年頭の言葉の中で、次のような提言をしている。「10年後、20年後の将来、レッキスはこうありたいという姿を描くために、レッキスの長期ビジョンを今年中にまとめておきたい」と。
 5月1日、社長はプロジェクトの発足に当たって、全社員に大要、次のような言葉で呼びかけた。「21世紀に向けての、わが社の長期ビジョンづくりは、単に会社を大きくすることではない。会社を大きくする以上に良い会社にするためである。レッキスで働くことができてよかったと、みんなが確信できる会社にしたいのである。みんなが共通の目標をもって、共通の価値観をもって、これからの厳しい時代を切り開いて行こう。これからの時代は、今までの経験では予測できない。だからこそ、今後のあらゆる変化への対応を想定して、自分自身の方向を自分たちで見つけていき、自分自身の世界を自分たちで創造して行こう。それがわれわれの生きていく道ではないか。より明確な目標、ビジョンを持つことができれば、個人の目標もはっきりする。それが仕事に生きがいを見つけることにもつながる。」
 時代が変われば企業そのものの中身も実態も変わるし、また変わらざるを得ないのは当然である。新たに企業として何をなし、何をなさざるかを明確にしておく必要がある。長期ビジョンで打ち出された「社会的役割」と「事業領域」は次のようなものであった。ここに記されている『ワーキング・アメニティ』とは快適な作業を指すレッキス工業の新しい合言葉である。快は愉快の快、適は最適の適を示す。安全・高信頼・高効率でしかも使って楽しい商品作りと、作業環境創りの両面から取り組み、〈快適な作業づくり〉へのレッキス工業の視点を表す。
  「社会的役割」…ワーキング・アメニティの創造を通じて豊かな人間社会の構築に貢献する。
  「事業領域」…ワーキング・アメニティ創造企業。(私たちは、人とテクノロジーとの調和の中で快適な作業づくりを進め、世界の人々に働く楽しさを提供するワーキング・アメニティ創造企業です。)
 1991年末に長期ビジョン策定プロジェクトが終了し、1992年3月には鳥取県西伯郡名和町高田工業団地に取得予定の鳥取工場用地の造成が終わり売買契約に調印した。現在の東大阪工場での生産活動はすでに飽和状態にあり、中・長期計画を達成するためにも、鳥取工場を建設することが必要だと考えて決断した。しかしながらバブル崩壊が本格化して鳥取工場の着工を3年延長したいと、名和町に申し入れた。
 パイプマシンをフルモデルチェンジする場合を想定して試算したところ、社内組立を前提にするとコストダウンは27.4%までは可能だが、主要部品については海外からの輸入に頼らざるを得ないという結果が出た。今後は、台湾からの部品輸入を進めるとともに、中国における会社設立を本格的に検討することにした。1996年3月、中国現地法人の設立認可が下りた。蘇州力克士機電工業有限公司の誕生だ。その12月には鳥取工場が完成して「トットリレッキス工業株式会社」を設立した。
 1998年の後半に入って、売上が急激にダウンするという異常事態になった。バブル崩壊後、全国的な土木・建設市場の低迷がここに来て臨界点に達したかのような急激な落ち込みを見せた。売上はピーク時の半分に落ち込んだ。全社的に残業の全面禁止、管理職の給与カットなど具体的なコスト削減対策を実施した。さらに、中高年層への早期退職の勧めやパートの削減などで人件費を約4億円、そのほか規模の縮小化等で約2億円の圧縮を目指すという思いきったリストラ策を実施した。
 1999年2月、宮川恭一社長は緊急対策を講じた後、次のようなコメントを全社員に発表した。
「昨年は売上の予想外の落ち込みにより、創業以来の厳しい経営状況に追い込まれた。99年に入っても希望退職をはじめ資産売却、営業所の縮小などの手を打って今後に備えているものの、将来を考えるとき、もっと根本的な対策を同時に打たなければ生き残れない。このような状況に陥った要因は何か。
1) 今回の利益ダウンは、国内外を問わず、売上面でも市場面でも偏りすぎて、リスクヘッジができる体制になっていなかった。
2) 誰かがしてくれるという甘えが抜け切れず、他力本願的な企業体質になっていた。
次期(1999.4~)は大きな犠牲を払っての再スタートになるが、売上・収益共に着実に実績に結びつけていく取り組みを徹底させなければならない。単年度の短期決戦とし、そのための戦略として、第1に「選択と集中」「スピード」をもってすべてに対処していく。勇気をもって切るものは切る。効率のよい動きで早く結果を出すことだ。第2に、急変する市場に対応するために、一層の意識改革を行い、次の3点を実施して奮起していこう。
1) 営業では訪問件数を3倍にする。
2) 仕入コストを20%削減する。
3) 技術の開発スピードを30%アップする。
これは思い切った費用構造、財務構造、事業構造の改革を意図したものである。事業構造とは、扱う商品を将来どのように位置づけていくかという観点から、商品の選定、仕入先の選定を行うことを意味している。」
 2000年4月、<新中期経営5ヵ年計画>を発表。創業80周年(2005年)に向けての計画立案として位置づけ、グローバル経営の推進と、急浮上してきた環境問題への対応を折り込んだ。また、本格的な価格破壊の到来、すなわち、価格競争力だけでは生き残れない時代に入ったことを認識して、一層のトータルコストダウンの実現と差別化戦略の推進に取り組むことを決意した。
 2003年4月、組織改革を実施した。この機会にPSIP(Practical&Strategic Innovation Program「実践的で戦略的な経営革新プログラム」)推進活動を開始した。全員参加の活動により、4S(整理・整頓・清潔・清掃)組織の活性化、Q(品質保証体制の確立)、C(コストダウン・標準化・効率化・生産性向上・在庫削減)、D(納期遵守)の改革を実現し、その活動を通じて会社の体制を強化し、ひいては競争に打ち勝つ企業文化を育成しようというものである。この活動はコストダウンの効果による粗利の改善や、資金効率改善の面からは在庫削減、また、品質面では市場クレームの改善など、体質強化に大きく貢献している。2005年7月から中国蘇州工場にもこの活動を取り入れて品質改善に役立てている。
 2005年12月刊行の『創業80周年記念誌』で宮川恭一社長は覚悟を次のように述べた。「この創業80年を機に、これからのREXはどうあるべきなのかを、一から考え直してみたい。顕在化したニーズの追求だけでは先手は取れない。差別化はしょせん後追いにほかならない。これまでは“いかに顧客のニーズに応えるか”を第一に考え、品揃えの充実を重視し、売上高やシェアにこだわってきた。成長分野はどこか、市場はどう動くか、マクロ経済はどうなのかといったことのデータ収集や分析をもとに、差別化のポイントを導き出して経営戦略を立ててきた。しかし、もう中小の機械工具メーカーが“量”を追いかける時代ではないように思う。これまでのような分析型のアプローチでは、どうしても”どこかにあるものを探す“というスタンスでの発想になってしまう。これからは”REXは何をしたいのか“という企業意志を皆で考え、共通の認識・価値観をもって、企業を方向づけていく必要がある。そうして、REXのアイデンティティ(REXらしさ)を再構築していかないことには未来は見えてこない。存在価値を社会にアピールできる企業になるためにも、顧客に問題解決を提案し実行する企業になるためにも、ビジネスモデルの転換をも辞さない覚悟で取り組みたい。」
 2008~9年のリーマンショックで大幅な売上ダウン。
 2009年「経営品質向上プログラム」に本格的に取り組み始める。
 従来のトップダウン経営を「ボトムアップ経営」に変えることを指向した。


E.事業承継2  目指す理想の姿
 2010年6月 4代目社長の宮川恭一氏が代表取締役会長に就き、宮川純一氏が代表取締役社長に就任した。
 2010年度を底に売上・利益が上向きに転じた。
 2012年 リーマンショックの危機を乗り越えて中期3カ年計画スタート。単年度生き残り経営からの脱却。

「レッキスが目指す理想の姿」を作成した過程
 ①全社員からのアンケート「レッキスをこんな会社にしたい」を「理想の姿」に反映。(一部を紹介)
 ・顧客からの信頼を得られる会社   ・オンリーワン企業   ・新製品がどんどん出る会社
 ・独自能力の高い会社   ・誇りに思える会社   ・笑顔が絶えない会社   など
 ②レッキスを取り巻く環境(社内外)を「理想の姿」に反映。
 ・レッキスのユーザーは3K現場での作業が多い。現場を「楽に」「楽しく」=ワーキング・アメニティ
 ・業界は超成熟市場で、顧客価値創造商品サービスを提供し続けるメーカーでないと生き残れない。
 ・トップダウンによる効率的な経営を行ってきたがワーキング・アメニティや顧客価値創造(商品サービス)を達成するには、組織と人の活性化が不可欠。

上記2項をもとにプロジェクトメンバーによる議論で「レッキスが目指す3つの理想の姿」を作成。
1.独自の技術・サービスでワーキング・アメニティを創造し、豊かな社会の実現に貢献します。
2.配管業に携わる方々をメイン顧客とし、感動を与える製品・サービスの提供を通じて、信頼される会社を実現します。
3.社員一人ひとりが元気と笑顔で、働きがいのある会社を実現します。

レッキスが提供する価値
快適な作業環境と顧客固有の課題解決の支援の提供を通じて、働く楽しさとライフラインの耐震化で安心・安全な社会づくりに貢献すること。

理想の姿を実現するための重要成功要因
1.ワーキング・アメニティ創造企業としてグローバルでのブランド認知―――快適な作業環境を提供するワ
ーキング・アメニティ創造企業としてグローバルでのブランド認知を高め、REXファンを創造すること。
2.国内外の顧客・ニーズにあった国際競争力の高いタイムリーな商品づくり―――国内外の顧客・市場ニーズや環境の変化を事前にキャッチし、新材料・新工法などにいち早く対応した機器を開発パートナーとつくる。
3.配管工事業者の課題解決に役立つ販売・サポートプロセスの構築―――国内外のそれぞれの地域特性に合わせた最適な販売・フォローの体制・仕組みを構築すること。
4.全員参加型の個人も組織もやりがいのある職場づくり―――全員参加型で社員が主体となっての組織的な取り組みやスキルアップを図っていく中で、お客様から支持を得て、そのプロセスを通じて、社員のやりがいが高まり、働きがいのある職場として変わっていくこと。 

理想の姿を目指して各部門の自主性・創造性が重要になる。
その要点を宮川純一社長は「『バカヤロウ経営』から『ありがとう経営』へ」と表現する。
 2013年 大阪府経営合理化協会「経営合理化大賞」を受賞。養殖事業(酸素発生・微細化装置)への参入。
 2014年 関西経営品質賞・優秀賞を受賞。レッキスインド本格稼働(販売・メンテナンス拠点)。
 2015年 創立90周年を迎える。“みるみる君”(デジタル式水圧・満水試験記録器)で発明賞を受賞。
 現在  「ありがとう経営」「全員参加型経営」の定着を目指す!
 2016年5月 シンポジウム「モノづくり長寿企業に学ぶ」において宮川純一社長は「長寿企業に必要な条件」を問われて以下の5項目を提示された。
➤ 受け継がれている創業魂 
  「変えてはならないもの」と「変わらなければならないこと」を見極める。
   転機におけるチャレンジはリスクをとってでも行う。
➤ 戦略を達成し、「理想の姿」に近づける
➤ 優れた製品の開発やメンテナンスサービスの提供を通じ、社会に貢献する
➤ 社名に恥じない商品を作り、グローバルな展開を目指す
➤ BCP(事業継続計画)を強化する
最後に、人材を育成して力をためることを強調された。
 
 
企業が長期に継続し続けるために必要なことについて『老舗企業にみる100年企業の知恵』の叙述より引用する。
(大西謙編著『老舗企業にみる100年企業の知恵―革新のメカニズムを探る―』2014年刊「はじめに」)

A「企業で最も大切なことは何だろうか?
    商品やサービスを通じてお客様に喜んでもらうこと
    社員を雇用しその家族を幸せにすること
    地域や社会に貢献すること

B「どれも大切であるが、それらを実現するためには、企業が長期に継続し続けることが何より大切なことと考える。
    持続可能な利益を生み出す仕組みを持つこと、そして
    利益を生み出すには、お客様が望む価値を創造し提供していく独自の能力が必要となる。」

   
前段Aは、レッキス工業株式会社の社是「三利の向上」そのものであり、
後段Bの「仕組みと独自能力」について次項以降で見ていこう。

F.事業展開   「利益を生み出す仕組み」と「顧客価値を創造し提供していく独自の能力」
 ねじ切り機のトップメーカーに満足せず、配管機械工具の総合メーカーへの道を切り開いてきた。ガス・水道・空調という多種多様な現場で活躍している。1980年代前後からパイプマシンの進化が始まった。モデルチェンジ、高機能化、多機能化、小型軽量化へ向かった。
 1989年から「切断機」を第2の柱商品にと本格的な取り組みを始めた。業界初の機能が満載の革新的「切断機」であるバンドソー「マンティス」の誕生は感動であった。魅力的な製品発想への道を開いたのは <商品企画+製品デザイン> の発想と組織であった。
 鋼管から樹脂管への移行が急速に進む中で脇役の融着工法が表舞台に登場した。主役のねじ接合は転造ねじへと進化して新たな出番を飾った。世界初の可搬式ねじ転造機の開発は溶接接合に匹敵する強度を実現した。
 1990年代、パイプマシンメーカーから「パイピングソリューションのレッキス」への転換を図り、樹脂管・銅管・ステンレス管・鋳鉄管でそれぞれオンリーワンもしくはシェアナンバーワン商品を育てた。
 2000年代、市場の成熟化にあわせ既存配管のケア分野に本格参入した。(フロービジネスからストックビジネスへ)
 現在、「切る」「つなぐ」「環境保全」をテーマとし、大切なライフラインを支える配管設備の提案と課題解決を中心にレッキスならではの技術とアイデアで事業を展開している。


G.「100年企業」に向けて、さらなる進化を  
 レッキス工業では、水道やガスなど我々の毎日の生活になくてはならないライフラインの確保のため、配管設備など様々な分野での商品開発に力を注いでいる。さらには「環境」をキーワードとし、養殖産業、省エネルギーなどの商品開発を進めていく。養殖では「水処理技術」、省エネでは「無電極プラズマランプ」を開発。他にも時間はかかるが、ポスト東京オリンピックに向けた多くの開発案件を進めている。2025年に迎える100周年に向けて、既存事業の強化・新規事業の開発・海外関連会社との連携強化にチャレンジしている。

リンク先
対談「わが社にとって100年企業とは」
レッキス工業株式会社 代表取締役社長 宮川純一様
フジ矢株式会社    代表取締役社長 野﨑恭伸様

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