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工場を記録する会は東大阪市製造業事業所の活力を記録しています

平成28年度  東大阪市
地域まちづくり活動助成事業

(対談) ベトナム現地法人を設立して

  東大阪でモノづくりを進め、ベトナムにも現地法人を設立した二つの会社の社長様からその苦労話や心を打たれたことをお聞きしました。三島硝子建材株式会社三島圭四郎社長あゆみ取締役ご夫妻、株式会社中農製作所西島大輔社長です。両社長が就任されたのは三島社長が2010年で二代目社長に、西島社長が2013年で三代目社長に就かれました。   三島あゆみ氏  三島圭四郎氏   西島大輔氏   両社は記念すべき周年をお迎えになり、中農製作所が昨年に70周年、三島硝子建材は今年50周年です。 両社に共通するのは、ベトナム人技能実習生を受け入れて、彼らが帰国してから現地法人を設立されたことです。    

技能実習生に着目する

中農製作所は2004年に、三島硝子建材は2011年にベトナム人技能実習生を受け入れておられます。 さらに、中農製作所は実習生受け入れから4年後にベトナムで高度人材面接を行って4人を採用されました。 三島硝子建材では受け入れから2年半後に技能実習生からの訴えがあったとのことです。 それぞれの会社で受け入れを決断された動機や受け入れ当時の様子、初めての技能実習生のエピソードをお聞きしました。  

株式会社中農製作所

技能実習生を受け入れ、さらに高度人材の採用へと踏み出した。

2004年に人材不足からベトナム人技能実習生を受け入れました。当時の売上構成比率の80%を自動車部品が占めていましたが、この2つには密接なつながりがあります。といいますのは、自動車部品は量産品でひたすら同じものをつくるのです。入社3ケ月で覚えたことをずっと何年も続けるのです。そのうえJIT(ジャスト・イン・タイム)の部品納入を課せられて1日4回、出荷しなければならず24時間操業の夜勤もありました。これらの事情から若い社員がなかなか定着しないという問題がありました。 解決策を考えている時に技能実習生の制度を知り、実習生の方々は収入を求めて夜勤や残業を厭わないとも聞きました。ワーカーとして働いてもらうことを決めましたが、どの国の出身かにはあまりこだわっておらず、ベトナムはたまたまだったんです。なんとなくベトナム人は手先が器用で真面目だということで、じゃあベトナム人と決めました。これが実習生のスタートです。 働いてみるとベトナム人は非常に優秀で、こんなに真面目で一生懸命働くんだという印象を持ちました。その長所は生産の新しい展開にも有効でした。それは自動車部品の売上構成比率を下げるために多品種少量の生産を開拓して軌道に乗せることです。ちょうどその頃に営業で私が入社しているんですが、徐々に単価の高い、手に職の要る部品を増やしていったんです。20年余りで自動車部品の比率を80%から25%に下げました。こうなってくると優秀なベトナム人実習生がせっかく覚えた技能があるのに3年で帰国してしまうのがもったいなくなりました。もっと日本におられへんのかとなった時に長期(5年)に働くことができる高度人材の採用を始めることにしました。高度人材とは大学卒や高度な技術・資質を持っている人材として採用することです。2008年からでした。現在、70名の本社社員のうち高度人材17名、技能実習生7名です。当初の2008年の高度人材の4名は現在、ベトナム子会社の社長・副社長、本社の課長・係長を務めています。  

三島硝子建材株式会社

リーマンショックによる売上30%減を受けて、ベトナム人技能実習生の受け入れとなった。

うちの会社はアルミサッシのオーダー品をつくっているもんですから一品一品を短納期・小ロットでやってまして、食いっぱぐれがありません。規模は大きくないですがお金を稼いでいくには困らないという、そういう会社です。 ただリーマンショックの時、売上の30%がドーンと落ちまして、当時、専務でしたが、薄利でいいから売上がほしい一心で仕事を取りに行ったんです。結果、残業が急激に増えまして、夜中3時4時までというのが半年続きました。そんなんで2人が辞めて、人増やさなあかんいうので4人入れましたけど、忙しすぎて教えられるわけもないので、新人4人ともすぐ辞めました。 ちょうどその時、知り合いの社長から「ベトナム人はええぞ。辞めへんし。3年間はおるぞ」と聞いて、これはええと思ったのが最初のきっかけで、まず2人雇いました。現場から反対はありました。「3年経ったら辞めていくやないか。こんな忙しい時に誰が教えんねん。教えても辞めんのにどうすんねん」。売上と利益のことしか考えていなかった当時、この反対を聞いて悪知恵が働くんですね。「いつ辞めてもいいような仕事をベトナム人にやらしたらええやないか。付加価値の高い仕事を日本人がやったらええやないか。分けてやったら、いつやめても替わりは効くやろ」と言って納得させた感じです。 こんな始まりでした。  

運命の会食。 実習生の本音を聞いて目が覚めた。

次の年も1人雇いました。ある時、妻のあゆみが興味本位で 実習生に「ベトナム語を教えてくれへん? そして食事に行こう」と声をかけました。 食事のなかで最初は普通に話していたのですが、途中から本音が出てきました。「ぼくらはバカじゃない。いつも怒られるけど、なんで怒られてるかわからない。仕事の手順や段階を教えてもらえるから頑張れるのに、教えてくれずに怒るばっかりで、家にも遊びに来えへん。誰も良くしようと何もしない」と言ったあと、「教える日本人がバカだと、ぼくらもバカになる」とまで言ったんです。 それでも僕はまだ気づいてないんです。怒ってるベトナム人をどうやってなだめようかっていうことばっかり考えておったんです。その時に隣にいた妻を見たら、ぽろぽろ泣いてたんです。今までの僕やったら「泣くなよ。これをなんとかするから」というのがやり方だったんですが、この時は「なんで泣いたんや」と聞いたんです。 こう聞いたのには伏線があるんです。当時は結婚したてで、妻はまだネイルサロンを経営していたのですが、「私の人生を助けてくれるのは旦那や。旦那を助けなきゃいけない」との思いで全部を捨てて会社に入ってくれたんです。それも事務室でのうのうとしてられへん、働いている人の気持ちがわからなあかんって工場に入ったんです。社員が徹夜しているそばで、何もすることがない時はずっと掃除して、冬の寒いなかネイルをボロボロにしてやってたんです。その姿を見た時に「しっかりせなあかんな」と自分自身で思ってたものですから、この人の気持ちを聞こうという気持ちになれたんです。 「なんで泣いたんや?」と聞いた時に言われたんが、「あの子らにも親がおるやろ。実習生で日本に送り出すまでに、たぶん自分の命に代えてもええと思って育ててきた子らや。その子が何も知らない、行ったこともない日本でどういう目に遭うかもしれないと親はずっと思いながら、あの子らは来てるのに、私らはなんてひどいことをしてるのや」と。妻は親の想いをずっと感じてたんです。その時に僕自身が「あっ、これはあかん」と思って…。自分の人生を振り返ったら、人の想いとか無視して自分の都合のええように解釈して生きてきた自分がおって、知らん間にいろんな人に迷惑をかけて生きてきてる。それでものうのうとそんなことをしてる自分が凄く醜く感じて、これはだめだと思って。 そこから変わってきたんです。それが変わったきっかけなんです。     先輩実習生が、次に来る後輩にSNSで連絡を取り合い、ベトナム国旗のTシャツをプレゼントしてくれました。  

新たな出発が始まった。

まず自分が勉強しなくちゃいけないと考えて、いろんな人に会って話を聞きました。いろんなことを聞くなかで、僕らがあの子たちにできることは何なのか、社員にできることは何なのか、を考えるようになりました。あと半年でベトナムに帰って、バイバイじゃないよねと話し合いました。ベトナムに帰ってもベトナムではサッシは安いと聞いているし、仕事にならんやろとも聞いてる。ただ日本語をきっちり覚えてたら何か日本語を使う仕事があるやろと考えて、妻が日本語を教え始めました。そこが最初です。 それともひとつは、なかなかみんなとしゃべる機会が夜は残業が多くてないので、昼なら集まるやろうということで昼ご飯をつくり始めたんです。昼食をともにしてどんどん変わってきはじめました。    

現地法人設立への道のり

西島社長は2013年に社長に就任、翌年にベトナム駐在員事務所を開設され、3年後に現地法人NAKANO PRECISION(ナカノ・プレシジョン)を設立されました。三島社長は、はじめての実習生が帰国してから1年半後にMGK Frameworks(エムジーケー・フレームワークス)を設立されました。お二人からベトナムで法人を設立されるまでの経過をお聞きしました。  

株式会社中農製作所

会長からベトナム進出のミッションが課された。

技能実習生を受け入れて7年、高度人材を採用して3年を経た2011年に全社員で一泊研修を持ちました。テーマは「これからの10年先をイメージして戦略を考えよう」で、10年後のSWOT(会社の強み、弱み、機会、脅威)をグループに分かれて分析しました。ベトナムチームは「俺らがいてるで。ベトナムに会社つくらんでどうするねん」と発表しました。当時、日本国内では、発注する大手が協力工場に高い海外調達比率を求める動きが出ていました。機運が生まれました。 それから2年後の2013年、社長に就任した時、会長になった2代目社長が言いました。「わしは創業を経験してない。これは良くなかった。おまえは創業を経験した方がいい」と。これにはびっくり仰天です。「今年、社長になったばかりですよ」って言っても聞いてもらえません。さらに追い打ちで「金をかけんとベトナムに進出せよ」というミッションが下されました。たしかに2008~09年のリーマンショックで売り上げが3分の1に激減してお金なかったので、当時ベトナム進出は一旦引出しに入れてしまってたんです。このような事情で「わかりました」と言うしかありませんでした。  

弊社のブースになぜか行列ができた。

ベトナム進出に向けてどう動くかを考えて絶好の機会になったのが、JETRO(日本貿易振興機構)が企画したベトナムのSECC(ホーチミン市にある見本市会場)での展示会でした。中小企業20社の一員として参加しました。2日目、最終日、なぜか弊社のブースに行列ができました。それほど陳列品に差がないのになぜなのかを考えて気づきました。他の企業は現地で雇った通訳を使っているのに対して、弊社は高度人材で採用した2人を連れて行っていたからでした。うちの2人が経験にもとづいて生き生きと喜んで説明する姿が見学者の心を打ちました。 この一件でビジネスモデルが決まりました。会長から「金をかけるな」と言われているのは設備投資するなということです。ならばブースで説明していた2人のように技術指導すればいい。日本企業から受けた注文の部品をベトナムのローカル企業にまわして、弊社が半世紀にわたって開発した固有技術(チャンピオンデータと言ってます)を指導すれば、新しく設備投資はしなくてすみます。2014年に設立したベトナム駐在員事務所は商いができないので、弊社からベトナム出身者をローカル企業へ技術指導に派遣して立ち上げからすべてをやってあげることで軌道に乗せました。提携したローカル企業は、もともとモノづくりができる事業所ではなく、今から始めたい、あるいは技術がなくて困ってる事業所です。 この駐在員事務所の期間に1億円の売り上げに相当する取扱い額になっていたため、法人に切り替え、初年度から黒字にできました。 3年後、法人登記を検討して設立に踏み切りました。 【「いいなあ」とつぶやいた三島社長は、「すごいことですね。僕らも地元でモノづくりネットワークに入ってやってますけど、黒字出してるところは、ほんと数社ですね。そのくらい本当に難しい」とコメントしました】。  

NAKANO PRECISIONを設立。 ナム社長は給与6,000ドルのヘッドハンティングを蹴った。

2014年以来、収益を上げていた駐在員事務所に代わって、ベトナム人主体の現地法人と取引することにしました。初めての高度人材で採用し、日本で6年間の現場経験のある2人が社長と副社長に就きました。ベトナム側に全権を委ねているので、会社名のNAKANO PRECISIONもベトナム人で決めました。私がするのはネットバンキングを使った 資金チェックだけです。 社長のナム氏は法人設立の当時から、自身の出身大学があり妻の郷里でもあるダナン市に第2工場をつくる構想を持っていました。ナム社長はマネージメントができる、日本語がしゃべれる、技術も持っているので、ローカル企業からヘッドハンティングがあり月給6,000ドルを提示されました。ベトナムのワーカーの月給が300ドルくらい。ナム社長には日本で働いている時より給与を下げてはいけないので2,000ドルの月給だったのですが、その3倍の金額です。これはやられたと思いましたね。ところがナム社長は蹴りました。 理由はダナン工場建設でしょう。NAKANO PRECISIONは自分らの考えで進めればいいと言っていまして、「第2工場建設の資金は自分らで貯めなさい、日本からはホーチミンのNAKANO PRECISIONは支援するが、ダナン第2工場は自分たちでやりなさい」という方針でした。そこの部分が他社に行かなかった理由でしょうね。 【三島社長のつぶやき「ナム社長はかっこええなあ。夢を追っかけてるんやね」】 NAKANO PRECISION  社員勢揃い  

三島硝子建材株式会社

工場を建てる気はさらさらなかった。何がそれを変えたのか。

実習生がベトナムに帰ってできる仕事はないかと考えて、起業したい日本人に情報をつなぐ仕事などいろいろと浮かびましたが、ベトナムに工場を建てる気はさらさらありませんでした。そんな時に『100年 就業規則』でお世話になっていた社会保険労務士の先生に「現地に行かなわかれへんのんちがう」と言われてベトナムに行くことにしました。8月に実習生が帰国して、私たちは10月末に行きました。 ベトナム商工会議所で商品を展示する機会を得たので、通訳として現役の実習生を連れて行きました。最終日に実習生の実家を訪ねる計画を立てました。なにかプレゼントを持っていきたいなと思って、写真を見たら窓がない家でトタンの板を木の棒でつっかえていたので、実習生に「電気つけたら虫が寄ってきて大変ちがうか。網戸があったらええあ」と言ったのです。そして、網戸の材料をいっぱい持ち、製造部長も一緒に行って現地でつくることにしました。ハノイから車で3時間走って、もうジャングルですわ。車が入っていかないので、1キロ手前で車を止めて歩いて行くんですけど、車を止めるところにお母さんが迎えに来てるんです。見たらね、裸足なんです。慌てて靴を履ぐのを忘れて走ってきてるんです。子どもが帰ってくるということで、泣いて泣いて。「こんだけ心配やったんや」とつくづく感じました。 家に着くまでに村の人が「よう帰ってきた」と言ってついてきて30人くらいになって、家には50人以上の人がいて、飲めや食えやの大騒ぎです。こっちは網戸8枚作らなあかんので、うるさいなかで作ってるんですね。そしたら作ってる時にギャラリーが来るんです。8月に帰ってた元実習生たちと、その家の実習生もみんなで手伝ってくれました。説明しながら作業している息子の姿を見てお父さんお母さんが誇らしい顔をしてるんです。その姿を見た時に「儲けるとか儲からへんからとかじゃないな。ベトナムでサッシをやろう」と決めたんです。それがきっかけですね。 帰ってから実習生に「お父さんお母さんどうやった」と聞いたら、「電話がかかってこなくなりました」と答えました。安心されたのですね。それまで毎日電話がかかってきてました。実習生にしてみたら電話がかかってきて「しんどい」と言っても親に何もしてもらえないからいつも「大丈夫」と言ってたんです。それを聞いて、なんの伝手もなかったですが工場を出すしかないな、と思って、そこからですかね。 実習が終わってから、私がその家をもう一回訪ねたらモルタルが塗られてきれいになっていました。それだけ仕送りしていたのですね。  

暗中模索のなか  MGK  Frame  Works  を設立する。

最初「会社名、何する」いう話の時に、こっちから「KIZUNA(絆)ええんちゃう?絆持ってくださいとか。SAKURA(桜)とか」と言ったら、「三島硝子建材がいいです」と答えたんで、「そんなもん、ベトナム企業が三島硝子建材を名乗って、電話かかってきて三島硝子建材って絶対言われへん」と返したら、「頭文字でいきます」と答えたんです。三島のM、硝子のG、建材のKでMGKです。それに続けて Framework(組織)という言葉をつけないほうがいいのですが、ベトナムはサッシ業があんまりないものですから、そのプロになる、専門でやる、そういう想いをこめて Frame  Works (枠組み)にしました。 恥ずかしい話ですけど、出した時に「行ける」いう感覚がなくてチャレンジする気持ちでした。行くと思った時に、まず工場を確保するところからで、僕の場合は新聞記事をずっと見て、ベトナムという言葉を見つけて、何かきっかけがないか探してました。そのなかにレンタル工場やってる会社がありまして、そこに飛び込みで行って話を聞かしてもらいました。次は材料をどうするねんいうことで、ベトナム進出を考えているメーカーさんと取引されていたダイワハウスさんに手をさしのべていただきました。ダイワハウスさんはレンタル工場を建設する計画を立てておられて、窓をつくるためにサッシを何十、何百と注文いただきました。国際部長さんがずっとついて応援してくださいました。 法律も業者も何も知りませんから、まず、どこからガラスを買おうって、バイクで近所まわってガラス置いてるところにかたっぱしから入って交渉しました。次は鉄どないしょうって。またバイクで走って「買わしてくれ」ってまわりました。最初1年間は売上どころか、何もわからない状態ですから、名前の通っている日系企業は全部飛び込みで、日本からお菓子を大量に持って行って訪ねてはベトナム人社員に「シンチャオ、シンチャオ(こんにちは)」言うてお菓子配って顔を覚えてもらって、そんな感じでした。そのうち「あいつまた来たぞ」ってちょっとずつ話を聞いてくれて、そして「俺も最初ベトナム来た時は苦労した」となり「やってみるか」と仕事をもらえるようになりました。 いろんなものを犠牲にして日本の会社も人に任してベトナムに行ってましたので、日本の社員から「社長、日本の仕事せんといてくれ。ベトナム行って僕らがカバーして、帰ってきて、また行って、またカバーしてやから。中途半端にするんやったらベトナムに集中してくれ。日本は僕らがやるから」と言われました。 妻にもずっと苦労かけっぱなしでした。会社のお金で全部出すわけにいかないから渡航費用から何から自腹切ってました。借金抱えてめちゃくちゃ苦労かけてました。僕がおれへん間、妻が一人で会社の面倒を見ていましたので、「なんか持って帰らなあかん、なんか持って帰らなあかん」と毎回思っていました。  

創業者の凄さを思い知った。

西島社長さんのお話のなかで、社長への就任時に中農会長さんから「自分は2代目で創業経験がない。それを悔やんでいる。だからベトナムに現地法人を設立して創業を経験してほしい」と言われたとのことです。私も2代目で同じです。MGKを立ち上げて、創業がこんなにしんどいもんかと思い知りました。40歳を超えてから親父の凄さに思い至って感謝しました。親父と一緒にやっていた母親は血を吐いて2度入院しましたが、病室に帳簿持って来いと言って経理してたんです。小学生の時に見てたんですけど、40歳を超えてその意味が分かりました。壮絶なことを創業者は夢中でやってきたんだなと分かりました。「人間と一緒に事を成す」ということを中途半端にして生きてきた自分が恥ずかしくなりました。    

人を大切にする未来へ…

 

三島硝子建材株式会社

社長が脚光を浴びることが多いですが、本当は働く人一人一人が大切な存在で、社長・社員に関わりなく全員がそういう存在だと思うんです。こんな愛すべき奴がおって、そのなかで僕らがおって、大切にみんなで守っていこうと思っています。ナカノ・プレシジョンのナム社長さんがダナンに工場をつくりたいという話を聞いて、自分が大切にする生きる場所を持っていることの素晴らしさを感じました。その場所を持たないまま死んでいくこともあるでしょうが、精一杯生きなきゃそこは生まれないですね。精一杯生きたら人の想いも気づけるし。そのことに気づかせてもらったのは、妻から愛情を受けて、しっかりやった時でした。会社を支えてきた人が輝けるようなモノづくりと人生が僕の働く目的です。儲けを増やしていけたらいいなあと思うんですけど、なかなか下手くそなんで。支えてきた人が輝くことなしには人生は楽しくないです。  

株式会社中農製作所

三島社長が仰っていたこと、全く同じ気持ちなんですよ。僕のほうは三島社長ほど社員を一番に考えていなくて、どのような経営者になりたいのかが前提にあって、経営者として最期をどう迎えたいかを考えます。周りの人たちが自分の会社に入って良かったとか、自分の会社が発展して良かったとか言ってもらえたら、自分が棺桶入った時に、やってて良かったと思えます。表現を変えて「自分は舞台であって演者でなくていい。社員の人が脚光を浴びるような舞台を整えるのが私たちの役目」。自分が褒められるより社員がえらいと言われるのが好きなんですよ。そこが大前提になりまして「うちの働く人らがどんどん成長して脚光を浴びていくために会社としてどんなことをしていかなあかんねん」って日々考えています。 そして「人が育つから新しいビジネスが育つ」という考えも大切です。中小企業は、人に入ってきてほしくても入ってこない。入ってきた人を環境のなかで育てていかなあかん。ビジネスがあるから人が必要なのか、否、違います。人が入ってくるから人を育ててそれが新たなビジネスにつながっていく。それが成長して会社の発展につながるし、会社の利益にもつながっていくような舞台をわれわれが整えていかなあかん。社員の成長を実現するまでが経営者の仕事だと思っています。 社員みんなを成功させられるかはわからないんですけど、それぞれに居場所をつくってあげて、必要やと言ってあげて。人って必要とされないとやめちゃうんで、その子たちが育って、いろんなビジネスに展開していけるような会社にしていきたいという想いから「人が育つから新しいビジネスが育つ」という考えを大切にしています。  

お話を伺って

お二人の社長の丁寧な御説明を伺い、これまでの両社の取り組みを調べる中で、心に刻まれた言葉があります。 三島社長は次のように仰いました。「自分の会社を支えてきた人の魅力に気づき、そこに集う社員の小さな活性化がたくさん生まれ、荒削りな中小零細企業の人たちの“自分も主役になっていいんだ”という既成概念のない個性が爆発し、日本の他の町から羨ましく思える“みんながイキイキと働く町、東大阪市”になることが本当の活性化だと思うんです。」 西島社長が仰ったことで、「人が育つから新しいビジネスが育つ。中小企業の良さは、自分の成長と会社の発展がつながっているところにある」という言葉は大変感銘深いものでした。 お二人から伺いました「会社を支えてきた人に気づくこと」「人が育つこと、会社が発展すること」についてのお話には大きな示唆がありました。他社の社長さんや働く人たち、そして外国人の労働者にも伝わるものがあったのではないでしょうか。 最後に両社の社員の皆様の御成長と会社の御発展を祈念して対談のまとめとします。    

対談日: 2020年3月17日

会 場 : 東大阪市立産業技術支援センター